映画「潮風のいたずら」のDVDを2012年7月に見ました。
1987年の映画で、監督はゲイリー・マーシャル、脚本はレスリー・ディクソン、主演はカート・ラッセルとゴールディ・ホーンです。
佳作ラブコメディという感じで楽しめました。
● 記憶喪失物のコメディ
この映画は、いわゆる「記憶喪失物」です。
傲慢なヒロインが、記憶喪失で貧乏な主人公の家に住むことになり、そこで生活するというものです。
記憶喪失物には2つのパターンがあります。1つは、記憶を失うことで、どうやって記憶を取り戻すか(取り戻させるか)というものです。もう1つは、記憶を失うことで、偽の記憶を上書きされる(上書きする)というものです。
この映画は、後者の「偽の記憶を上書きする」というものになります。
この映画がコメディとして面白いのは、子だくさんで寡夫の主人公が、家政婦としての妻が必要で、ヒロインを騙して子供の世話をさせるというところです。
ヒロインは「何だかおかしい」と思いながら子供の世話をして、主人公は「ヒロインを騙す」ために、あれやこれやの、涙ぐましい努力をします。
そのドタバタがこの映画のコミカルな部分になっています。
● ラブコメディ
では、ラブコメディの「ラブ」の部分はどうでしょうか?
そのドタバタをしている内に、徐々に心を通わせていく主人公とヒロイン。苦労を共にした2人は、徐々に愛情が芽生えてきます。
この映画が面白いのは、「恋愛」ではなく、「愛」の部分です。「恋」に落ちて結ばれるのではなく、共に生活して、苦労を共にすることによって、互いに愛着が湧き、愛が芽生えていくところです。
人類の歴史を見渡してみれば、実は恋愛による結婚よりも、こちらの生活を共にする内に愛情が芽生えてくるというパターンの方が多いのではないかと思います。
結婚相手を自由に選ぶという現在の婚姻形態は、近代以降、家族や家系や氏族といった単位が断片化されて、労働者という存在に均されて以降のものです。
それまでは、階級や職業、家の都合などで相手を選ぶか、ごく狭い範囲で習慣としての嫁取り、婿取りが行われていたはずです。
そういった「形から入る愛」というものを、この映画を見ていて、考えてしまいました。
● 立場が変わることによる性格の変化
物語ではよく、立場が変わることにより、世の中の見方が変わり、登場人物が大きく変化する様が描かれます。
こういった体験は人間にとって普遍的なものであり、物語としてもダイナミックな変化を体験できるのでよく構造として選ばれます。
ある意味、記憶喪失というのは、その最たるものだと思います。
これほど強力に立場が変わることは、人間にはなかなかないと思いますので。
また、この映画では、記憶喪失とともに、大金持ちから貧乏人に立場が変わります。これも、よくあるパターンです。
そういった、よくあるパターンで構成されているのですが、楽しく見ることができました。
ラストまで全て予想が付くような話でしたが、普遍的なテーマや内容は、やはり安心して見ることができると思いました。
ちょっとした息抜きによい映画だと感じました。
● あらすじ
以下、あらすじです。ほぼ、ラストまで書いています。
主人公は子だくさんの寡夫で大工。彼はある日、富豪のクルーザーに仕事で呼ばれる。
その富豪の妻は、美人だが傲慢な女で、主人公に無理難題を突き付けて翻弄し、最後は商売道具を海に捨ててしまう。主人公は腹を立てて家に帰る。
その富豪の妻が海に落ちた。彼女は記憶喪失になる。そのことを報道で知った主人公は、からかう気が半分、子供の子守になればという考えが半分で、「自分の妻だ」と言って、彼女を家に引き取る。
富豪の妻は、いたずら好きの子供達の世話で苦労する。
主人公は、富豪の妻に子供の世話をさせるために、涙ぐましい嘘の数々を重ねる。「写真がない」と言われれば、友人に合成写真を作ってもらったりして、富豪の妻を騙し続ける。
そうして生活をしていく内に、2人は徐々に心を通わせていく。そしてとうとう本当に結ばれる。
しかし、富豪が妻を探していた。富豪の妻は、本来の夫の許に戻ることになる。それを追う、主人公と子供達。
そして追い付いた主人公は、富豪の妻と対面する……。