映画「國民の創生」のDVDを十一月下旬に見ました。
 1915年の白黒映画で、原題は「The Birth of a Nation」。監督はD・W・グリフィスです。
 映画の本を読んでいるとよく名前が出てくる映画の一つなので借りてきて見ました。
 後の映画の見せ方にかなり影響を与えた作品だということなので気になっていましたので。
 前知識は少しあったので、いきなり驚いたりはしなかったですが、今見ると凄い映画です。
 映画の映像面ではなく、中身がです。
 この映画は、前編と後編に分かれているのですが、前編は南北戦争前夜からその終結、そしてリンカーン暗殺までを描いています。
 そして後編は、南部の混乱とKKKの誕生までを描いています。
 えー、つまり、「国民の創生」とは、白人が立ち上がりKKKを作ることです。
 ……そういう映画です。
 そして、映画の主眼は、「悪しき黒人たちがアメリカを乗っ取るのを防ぐために、白人が立ち上がり、黒人を駆逐すること」にあります。
 時代だなと思います。
 今作ると、大変なことになります。
 でも、そういった考えの人が、まだまだアメリカには多いのが現状のようですが。
 台詞もなく、140分ぐらいある長い映画なのですが、飽きずに最後まで見ることができました。そういう意味では、よくできています。
 しかしまあ、いろんな意味で、はちゃめちゃな映画だなと思いました。
 映像的には、いくつかのシーンを交互に見せることで、緊迫感を上げるアクションシーンの作り方が特に上手かったです。
 終盤の、KKKが馬に乗って、黒人の首領の許へ攻撃に行くシーンは、今のアクション映画に通じるよくできたシーンでした。
 今見ても普通に興奮します。
 いや、KKKの攻撃に興奮するのはどうかと思いますが、映像的に人間を上手く興奮させるようにできています。
 そういう意味では、上手い映画だなと思いました。
 あと、この映画では、もう一つ特筆すべき点があります。
 女の子を可愛く撮っている。
 この時代の白黒映画の女の子は、現代の基準で言うと、あまり可愛く撮られていない場合が多いのですが、この映画の女の子は可愛く撮られています。
 これは、キャストを選んだ人が上手いのかと思いましたが、そうではないようです。
 シーンによっては、女の子がアップで映り、その際には、被写体自身はそれほど可愛くないのが分かります。
 つまり、撮り方が上手い。
 映像センスの高い監督なんだろうなと思いました。
 以下、粗筋です。(ネタバレあり。最後まで書いています)
 南北戦争では、多くの人々が戦場に出て、死傷した。
 南部に住む主人公の家族も例外ではなく、主人公たち若い男は全て戦場に行った。しかし、主人公以外はみんな死んだ。
 主人公も負傷して敵軍の手に落ちる。そこで彼は、友人に写真をもらって大切にしていた思い人に出会う。
 喜びも束の間、彼は死刑を宣告される。
 しかし、彼女の協力で、リンカーンに直訴し、命を救われる。彼女は、リンカーンの次に権力を持っている政治家の娘だった。
 戦争は終わり、リンカーンが南部にやって来る。そして彼は凶弾に倒れる。それから、社会は徐々に悪い方向へと向かい始める。
 以下、後編。
 娘の父親は、黒人に力を持たせ、その力を自分の政治力にしようと企んでいた。彼は、そのために南部にやって来る。
 そんな中、たがが外れた黒人たちは、町で狼藉を働き始める。
 そして、政治家の部下だった黒人が野心を持ち、自分が権力を持つことを画策する。そして、政治家の娘を自分のものにしようと企む。
 主人公は、町を黒人たちの手から守るためにKKKを創設する。
 そして、権力を持とうする黒人から、娘を救うために、騎馬兵を組織して攻撃を始める。
 黒人たちを駆逐したKKKたちは、勝利の声を上げる。
 こうやって書くと、凄い映画ですが、実際の映画の中身もこんな感じです。
 あと、映画を見て思ったのは「教育は大切だ」ということです。
 教育を与えず、急に「自由だ」と言っても、人間は何をすればよいのか分かりません。
 拘束していた人を自由にするということは、教育込みでやらなければならないことだなと、この映画を見て思いました。
 そういう意味では、本当の自由には、最低限一世代は掛かるのだと思います。
 以下、教育のことについて少し書きます。
 人間が、時代相応の人間になるために獲得しなければならない知識は、時代を経るごとに増大しています。
 一人前の人間として振る舞うためには、適切な教育を受けなければなりません。
 そういった教育を経なければ、その時代の水準に見合わない時代遅れの(ある意味野蛮な)人間になってしまいます。
 社会を維持するためには、教育が大切です。
 また、先人の知識を徹底的に吸収することが大切ですが、それとともに、それを疑う知性を身につけさせる必要があります。先人の知識が間違っている可能性がありますので。たとえば、神とか宗教とか。
 そういった「時代相応の知識」と「健全な批判精神」を持っている人間を育てることが、社会を維持していく上で大切です。
 どうも教育というと、前者(知識)だけを考えている人が多いので困ります。そういう人は、自分の常識だけで物事を判断しようとします。
 常識というものは、移り変わるものなので、そんな物だけを根拠に社会をコントロールすると、事故を起こします。
 なんというか、昨今のアメリカの神権国家ぶりを見ていると、「時代相応の知識」も「健全な批判精神」もなくなり、知的退化(というか強烈な二極化)を続けているのが怖いです。
 日本も学力が凄い勢いで落ちているようですので、もっと“正しい”教育に力を入れて欲しいものです。
 ついでにもう一つ。
 人間が、先人から受け継がなければならない知識(情報量)は、現在、凄い勢いで増大しています。
 ある一定のところまでくると、人間のマシンスペック内では、習得不可能なレベルにまで到達すると思います。
 その時、これまでの手法での情報の受け渡しはできなくなります。
 そうなると、新しい情報伝達手法が開発されるか、マシンスペックを満たす人間と、満たさない人間で、成長段階で分岐が起こる可能性が出てきます。
 そして、情報量が一方的に増えるならば、その教育に脱落する人が多数派になり、民主主義では、その「教育に脱落した人」の意見が政策に反映されます。
 つまり、現在起こっている民主主義の問題が、決定的に固定化してしまう。
 そうなると、知の揺り返しが起こる可能性があります。
 社会から、情報量を減少させる方向に退化するというか、人間のマシンスペック的な「知の壁」にぶつかるかもしれない。
 私が生きている間にそういった現象が起きるかどうか知りませんが、二極分化は既に起きていると思います。
 まあ、SF的な考え方なのですが。気になっています。