映画「チェンジリング」を劇場で三月上旬に見ました。
2008年の映画で、監督はクリント・イーストウッド、脚本はJ・マイケル・ストラジンスキー、主演はアンジェリーナ・ジョリーです。
「破天荒に面白い」といった映画ではないです。映画のラストにもたらされる、微かな一条の光のような「あまりにもか細い希望」に胸を締め付けられる映画でした。
しかしまあ、これって実話なんですよね。映画のプログラムを読むと、ほとんどの人を実名で出しているそうですし。
複数の事件が絡んだ複雑怪奇過ぎる事件のため、これが実話でなければ「そんなに複数の事件が複雑に絡むような事件など起きないだろう」と思ってしまうような内容でした。
映画製作は、脚本家のJ・マイケル・ストラジンスキーが市庁舎にいる情報源から連絡を受けたことで始まったそうです。
公文書の廃棄時期が近付いていて、彼が興味を持ちそうな事件の書類がある。そう言われて、市庁舎に行ってその文書を読んでみたら、その内容の“有り得なさ”に愕然として、調査を始めたそうです。
市庁舎に記録が残っているし、裁判も開かれているので、全部オープンな情報です。
その事件の複雑怪奇さと、その紆余曲折の過程を一本の映画として完全にドラマ化していることに、素直に凄いと思いました。
映画のプログラムには、黒沢清の感想と分析も書いてありました。それを読んで「なるほどな」と思いました。
それは、「この映画の主人公は、基本的に何も行動をしない」ということです。
映画のシナリオは、基本的に能動的なアクションの積み重ねで作られています。しかし、この映画の主人公は、周囲に翻弄され続けます。そしてその状況を、監督は淡々と時系列に従って撮り続けます。
黒沢清は、その様子を「小津安二郎に近付いている」と書いていました。
ただ時系列で並べているだけなのに、そこに圧倒的なドラマを生み出す力のある映画を撮れる。言われてみると、それは稀有のことだよなと思いました。
この黒沢清の見開きの文章は、「映画の見方」という意味で、非常に勉強になる内容でした。どうでもいい映画評論家の書く映画評の何倍も実のある文章になっていました。
以下、具体的な話に入る前に、一つだけどうでもいいことを書こうと思います。
主役のアンジェリーナ・ジョリーの顔が、「オバQ」にしか見えなかった……。
白塗りの顔に、真っ赤に塗った巨大な唇に、目を強調する黒くて太いメイク。
最初画面に出て来た瞬間、私の頭の中で、「バケラッタ」と言う言葉が渦を巻きました。映画とは直接関係ないですが、どうしても気になったので書いておきます。
さて、以下、完全にネタバレの感想を書きます。
この映画は、基本的にミステリーなので、ネタバレが嫌いな人は、一切先を読まないで下さい。
この事件ですが、名前の「チェンジリング」の通り「取替え子」としか言いようのない話です(RPPGなどが好きな人には「チェンジリング」は既知の言葉だと思います)。
ある日、息子が行方不明になった。数ヵ月後に警察が保護して連れ帰ってきた子供は、全く別人だった。警察は、その子供は正しい子供であり、「違う」と言うのは、母親が精神に異常があるからだと言う。そして警察は、彼女を強制的に精神病院にぶち込む……。
まるで、妖精が悪さをしたような、悪夢のような話です。
なぜ1928年という近代に、こんな奇妙なことが起こったのか? この映画は、その顛末を描いています。
そしてそこには、「有り得ない」と思うほど、複数の事件が絡んでいます。
事件は、大きく分けると三つあります。
・腐敗した警察による権力の暴走。
・連続幼児誘拐殺人事件。
・嘘吐き少年。
この三つの事件は、完全に独立した別個の事件です。それが同時に一箇所で起こったために、悪夢のような現実が登場します。
主人公が当初知り得ない事実を時系列に書くと、以下のようになります。
1.シングルマザーの子供が行方不明になった(誰も知らないが、本当は連続幼児誘拐殺人犯に連れ去られた)。
2.子供の行方不明が新聞で報道された。
3.ある少年が、「自分が子供だと名乗り出れば、旅費を浮かせられる」と思い、嘘を吐く。
4.当時、不正の発覚が続き、汚名を返上したかった警察が、少年の発見を手柄として大々的に報道する。
5.親子は面会するかが、母親は自分の子供ではないと警察に主張する。
6.面子を潰されるわけにはいかない警察は、全力を挙げて「正しい親子」として外堀を埋めていく。
7.母親は、本当の子供の捜索を警察に必死に懇願するが、警察は育児放棄だとして罵る。
8.母親は、本当の子供の捜索のためにマスコミに接近。
9.その動きを察知した警察が、秘密裏に母親を拘束し、完全隔離の精神病院にぶち込む。
10.ひょんなことから幼児連続殺人犯の事実が発覚し、連れ去られた子供の中に、シングルマザーの子供がいることが明るみになる。
11.警察の主張が全部嘘だったことが世間にばれる。
12.当時、警察の不正と戦っていた牧師がバックに付き、母親は、警察と裁判で全面対決を始める。
13.連続殺人犯が逮捕されるが、母親の子供を殺したかどうか、言質を取ることができない。何人かは彼の許を逃げ出しているという事実もある。
14.警察の不正を糾弾する裁判と、殺人犯の裁判が同時に進んでいく。
実話でなければ、「そんな馬鹿な!」と思ってしまうような展開です。
そして、心底恐ろしい話です。
特に、連続殺人鬼よりも、ロサンゼルス市警の腐敗ぶりに身の毛がよだちます。
個人としての殺人鬼よりも、システムとしての殺人集団の方が危険ですので。
連続殺人鬼のゴードン・ノースコットですが、Wikipedidaに記事があったので貼っておきます。
□Wikipedida - ゴードン・ノースコット事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6 殺人鬼を演じていたジェイソン・バトラー・ハーナーが、気持ち悪くてよかったです。舞台俳優系の人だそうですが、頭のねじの緩い殺人鬼を好演していました。
あと、映画の終盤にゴードン・ノースコットの絞首刑があるのですが、そのシーンを見て「カポーティ」(2005)を思い出しました。
「カポーティ」では、事件が1959年に起き、1965年に小説が発表されています(その前後で処刑が行われています)。
対して「ゴードン・ノースコット事件」では、事件が1928年に発覚し、1930年に処刑が行われています。
時間はだいぶ離れていますが、絞首刑のやり方はほぼ共通しているようでした。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。終盤の半ばぐらいまで書いています)
主人公は、電話回線の交換業務をしているシングルマザー。管理職に近い立場で働いており、他の女性たちの指揮を執りながら仕事をしていた。
ある日彼女は職場から連絡を受ける。急の休みが入り、代わりに出て欲しいというのだ。責任感の強い彼女は出社する。だが、その日を境に、息子は姿を消してしまう。
警察での捜査は遅々として進まない。数ヵ月後、警察に保護された子供は別人だった。その日から、彼女の本当の悪夢が始まる。
顔も違えば身長も低い、おこなった覚えのない割礼まで施されている“見知らぬ子供”。彼女は警察に捜査のやり直しを訴えるが、ことごとく退けられる。
そんな彼女に注目する人間がいた。ロス市警の不正をラジオで糾弾し続けている牧師である。彼は新聞に掲載された警察の発表から、それが出鱈目であることを見抜く。主人公は、彼のラジオ番組を通じて真実を訴えることを約束する。
しかし、その約束が果たされることはなかった、マスコミに触れ回られては警察の立場が悪くなる。そう判断した警察は、彼女を拘束し、完全隔離の精神病院に閉じ込める。そこには、警察に逆らったことで監禁されている人々が無数にいた。
牧師は主人公の行方を追う。だが警察はその行く先を漏らさない。
そんな中、思わぬところから事件が動き始める。一人の少年の告白から、幼児連続誘拐殺人犯がいることが判明する。そして、その誘拐された子供の中に、主人公の息子もいた。
警察は、しぶしぶ自分達の間違いを認める。牧師は主人公を救い出すが、殺人事件に子供が巻き込まれたことを知った母親は絶望する。
だが、希望はまだあった。誘拐された子供は全員が殺されたわけではなかった。何人かは逃げ出していた。
主人公は牧師とともに、警察を糾弾する裁判を起こす。そして、連続殺人犯の裁判も同時に始まる。全ては明らかになるのか? そして息子は生きているのか? 主人公は、藁にもすがる気持ちで、裁判を傍聴し続ける……。
しかしまあ、最後の希望のか細さには、思わず涙が浮かびました。
信じたいのは分かるが、それはあまりにも可能性が低い希望……。
そしてそれと同時に、自分の息子の人間性を知り、そこに「誇り」と「愛」を感じる。受けた痛みに対してはほんのわずかだけれども、それを糧に今後生きていけると思える、涙が出るような「癒し」。
針の穴に糸を通すような精妙さでもたらしてくれるこの感動。
イーストウッドという監督は、八十歳にしてまだまだ上り続けているなと感じました。「グラン・トリノ」も楽しみにしています。