映画「フラッシュダンス」のDVDを八月中旬に見ました。
1983年の映画で、監督はエイドリアン・ライン、原案・脚本はトーマス・ヘドリー・Jr、主演はジェニファー・ビールス。
一言で言うと「お尻映画」です。あの大写しのお尻が、当時はスクリーンいっぱいに投影されていたのかと思うと圧巻でした。ちなみに、後で調べたところによると、ダンス・シーンはプロ・ダンサーが代役しているそうです。
□allcinema - ジェニファー・ビールス
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=42779
● フレッシュなお尻
この映画の最大の魅力は、お尻にあると断言してよいでしょう。
真面目な映画鑑賞者からは白い目で見られそうですが、エンターテインメント作品というのは、何か突出した「お金を払う魅力」があれば、作品として成立します。
この映画は、ストーリ的には、非常に楽天的でライトなサクセス・ストーリーです。この陽性の清々しさは、まさに80年代という魅力に溢れています。
しかし、その部分は、当時の映画の多くに共通している特徴です。
この映画が、他の映画との差別化に成功しているのは、ダンス・シーンを大アップでお尻を写すという撮影手法だと思います。
映画とは、映像と音楽とストーリーで構成される表現媒体です。たとえば「女性」を撮るにしても、どこを撮るかでその表現は大きく変わります。
顔を撮るか、胸を撮るか、お腹を撮るか、お尻を撮るか、太腿を撮るか、足首を撮るか。
そして、その撮影場所は、映画の企画とマッチしていてこそ、その効果を最大限に発揮します。
この映画では、その魅力が「ダンスによる引き締まったお尻」に集約されています。
フレッシュで引き締まったお尻が、健康的で弾けるような躍動感でフィルムに納められています。
正直に言うと、ストーリーはそれほど面白くありません。どちらかという、月並みで退屈です。
しかし、この「お尻」の突き抜けた魅力があるために、この映画は作品として成立していると言っていいでしょう。
というわけで、この映画は非常によい「お尻映画」でした。
● 80年代
もう、匂い立つような「80年代」です。
世の中が上昇することしか信じられておらず、誰もが努力することによって上にあがれ、成功するチャンスが用意されている。
そういった空気が、世界に満ち溢れているような80年代です。
現在に比べれば、どことなく貧乏臭く見えるようなファッションやデザインも含めて、そこには輝かしい未来を信じる人々による活気が溢れています。
そういったキラキラの中で、成功を夢見て、ダンサーを目指す溶接工の女性がこの映画の主人公です。
2010年代に同じストーリーで映画を作ると、全く違う陰鬱な映画になると思います。
そういった意味で、時代を上手く切り取ることのできた、時代感溢れる作品になっていると思います。
● 非常にベタなサクセス・ストーリー
この映画に関しては、ストーリーはおまけのようなものです。同じサクセス・ストーリー系の映画なら、「ロッキー」(1976)には遠く及びません。
そうなっている理由の一つが、主人公のモチベーションの盛り上げ方が散漫なことが挙げられます。
サクセス・ストーリーには、鬱屈と反動の仕掛けが必要です。より強く大きな不幸でバネの力をためて、一気に跳躍させる必要があります。
この映画では、三つの鬱屈が用意されています。一つ目は親友の転落、二つ目はオーディションに対する恋人の政治的な介入、三つ目は恩師との約束と死です。
一つ目はそもそも本人にとってのモチベーションとしては弱いです。また、二つ目は大きな反動となるような性質のものではありません。そして、三つ目は、内容の割には、かなりあっさりと描かれています。
そのために、この主人公の内面があまり掘り下げられておらず、結果、強いモチベーションなしにサクセス・ストーリーに挑むといった内容になっています。
ここらへんが、ストーリーの弱さの原因かなと思いました。
● 若さと潔癖
映画中、主人公には恋人ができます。その恋人が、主人公のダンスのオーディションに介入してきます。
具体的には、主人公にはオーディションを受ける資格がなく、伝手を持っている恋人がオーディションを受けられるようにします。
この好意に対して、主人公は怒り、恋人と対立します。
このシーンを見た時の感想は「若いな」でした。
若さとは潔癖と同義語だと、最近、三島由紀夫の「豊穣の海」の一、二巻を読んで感じました。
「若いな」と感じた自分は、既に若くないのだと思います。
「若さによる潔癖」とは、自分が世界と対立する唯一の人間だと信じることだと思います。
だからこそ、自分が世界と離れがたい癒着をすることを許せないのでしょう。
対して年を重ねるということは、自分が世界と混ざり合った一部でしかないと自覚することだと思います。
自分だけで世界が動いていないことを知り、世界を動かす梃子に手をかけることをよしとする精神。それが老獪さであり、汚辱を受け入れることなのでしょう。
この映画を見て、主人公が恋人の行為を拒否するシーンを見て、主人公の若さとともに、そこを話の中心に置くシナリオを書かせる「時代の若さ」というものも同時に感じました。
そういった意味で、「若さ」を強く感じる作品でした。
● 話の薄さと作品のヒット
この映画を見て思ったのは、話の出来のよさと作品のヒットは、必ずしも合致しないなということです。
ヒットするということは、堅牢な話の出来のよさではなく、時代と歩調を揃えて、その空気感をうまく切り取れるかどうかなのだなと感じました。
それだけで全てが決まるわけではないですが、そう思わせる「時代の上手い切り取り」がこの映画にはありました。
たぶん、この映画を「出来が悪い」と言って切り捨てる映画評論家は、そういった部分が許せないのだろうなと思いました。
● 粗筋
以下、粗筋です(ネタバレあり。最後の方まで書いています)。
主人公はピッツバーグの溶接工の女性。十九歳の彼女はダンサーを目指していた。
しかし、彼女はオーディションを受ける手前でいつもためらってしまう。彼女は正規のダンスの教育を受けていなかった。そのため、オーディションに書くべき、バレエ・スクールなどの背景がなかった。
彼女は溶接会社の社長と恋愛関係になる。相手は、バツイチだった。彼は人生の成功の報酬として、美人で上流の妻を得ていた。しかし、根っこの部分でそりが合わずに別れていた。
主人公にはスケートをしている親友がいた。彼女はプロスケートのオーディションを受けるが落ちる。そして、人生を転落させる。
主人公の恩師は、主人公にオーディションを受けるようにと何度も促す。
主人公は、恋人が美しい女性とダンスを見ている現場を目撃する。主人公たちの関係は壊れるかに見えたが、その女性が元妻だと知って、二人の関係は修復する。
主人公は自分もオーディションを受けることを決意する。しかし、彼女は書類審査で通るような背景を持っていない。主人公の恋人は、裏から手を回して書類審査が通るようにする。
そのことに対して主人公は激怒する。彼女は、自分の決意が汚されたと思う。
主人公はオーディションを受けまいと考える。その中、主人公の恩師が死んでしまう。主人公は、再びオーディションを受ける決意を固める。
主人公はオーディションに臨み、自らのダンスを披露する。